他者に攻撃的になりがちな他人の話
この間、ジョーカーを見たっていう話はしたと思う。
この世の中にそこそこの毒親に育てられたっていう人は沢山いるんじゃないかな。
その意味で、あれはとても刺さる映画だった。
良いか悪いかは別にして、本当に単純で分かりやすい話だもの。
その翌日ぐらいに、私も子供時代の自分が無性に思い出されてね。
私、嫌いな奴の事を考えるとすぐに「死ねばよいのに」とか言っちゃうのよ。
それって私の攻撃的な部分。社会に出たら隠して生きてるけど、親しい人の前じゃ外に出しちゃう攻撃的な部分なの。
で、今私って職場を2回失敗してて、この失敗はどれ程いくら考えてもどうにもならない失敗で、私に残されてる選択肢って「辞める」って事しかなかった。
でも、腹は立つわ。
恨みたくもなる。
今まで頑張ってきたものってなんだったんだろうって思う。
そりゃお給料貰っているわよ。雇用主なんてお給料払ったからそれで十分だろって思ってるでしょ。でも、私の大事な人生の時間を使ってそれはないだろ、っていう結果に終わった。
ええ、ほんとに、地獄の業火に焼かれると良いわ!
って思う。
地獄の業火に焼かれながらそれでも天国にあこがれるのはファントムなんだけど。
クリスティーヌが好きなばっかりにちょっと暴走しちゃったファントムは、今でいうヤンデレってやつよね。執着心の強いヤンデレ男と無垢な少女の話は今も割と人気なジャンルだと思う。
話しは戻るけど。
ジョーカーを見た次の日かしら、私を傷つけた職場の経営者たちに対して憎悪の感情が残ってる自分自身に思ったの。
『私もジョーカーだ』って。
アドラーの心理学で、『私の課題』と『他人の課題』を分ける必要があるって言うじゃない。
他人の抱えている問題は私の問題ではなく、私は私が幸せになるために、他人を許す(忘れる)必要があるって。他者がどれだけ残酷でも、私は私が幸せになるためにそれらを許す必要があって、他者が残酷のまま生きるか、残酷性を捨てるかを選ぶのは他者の課題である、っていうのよ。
それは全くその通りだと思う。
恨んでも憎んでも良い事はないわ。それより美味しいもの食べて、映画見たり、お買い物したりして、にこにこしてたいじゃない。
でも、結構それって難しいのよ。
私が憎悪の感情を抱える羽目になったのは他者のせいだもの。
突き詰めて考えると、それは多分『家庭環境』のせいだもの。
家庭環境はどうにもならないわ。そういう家に産まれてしまったの。そういう母親に育てられたのよ。今更、どうにもならない。
でも、責めちゃうわよね。
憎んじゃうわよね。
ジョーカーのように、はずみで人を害してしまうこともあるかもしれないわ。
そういう意味では私はジョーカーなの。
そして多分、他者を攻撃することでしかコミュニケーションを取れない、あの人たちも。
人は気づかないうちにジョーカーになってしまっているのよね。
社会に出て10年ぐらいになるかしら。
学生時代からそうなんだけど、集団の中に必ず一人か二人は他者を攻撃することでしか仲間を作れない人たちがいるのよ。
ごく最近では、職場に居たわ。
その人たちは自分を不幸だと嘆いてる。辛い辛いと自分を哀れんでる。そしてどういうわけか、その辛さを他人に対する攻撃という形にしてしまうの。
その人たちの特徴なんだけど、会話が続かないのね。
どれほど気を使って言葉を返しても、会話が終わってしまう。多分どこかずれているんだと思う。
本人たちはそのずれは無自覚だし、ともかく自分が中心にいないと孤独を感じてしまうから、自分をないがしろにして他者が盛り上がっているのが許せないし、会話の輪の中にも入れないの。
入れないし、入ろうとしない。
それから、親しくなるために唐突に物をあげようとするのも特徴ね。
自分の所持品を他者に与える事で、他者を支配下に置いた気分になるのだと思うわ。
ターゲットを決めて、徹底的に嫌うの。
そうするとね、その集団の中で自分の居場所ができるのよ。
本当はそんなことをしなくても、初めから集団に居場所はあるし、ある意味で等しく集団に居場所なんかないのにね。
ジョーカーっていうのは本当に分かりやすくて単純で、刺さる映画だった。